『日本村100人の仲間達』という本があります。日本村は日本を意味しています。その中に面白い話が載っていました。
日本村には「おきて」があります。村人なら、いつでも、どこでも、誰でも、守っていることです。例えば次のような「おきて」です。
おきて1、Yes, Noは、はっきりいってはいけない。
おきて2、他人の目を気にしろ。
おきて3、マニュアルどおりに行動せよ。
おきて4、宗教はいいとこだけをつまみ食いせよ。
おきて5、行列できる店には並べ。
おきて6、「本音」と「建て前」を使い分けよ。
おきて7、「均一」「標準」「平均」的になれ。
おきて8、知らない人にあったら、まず笑え。
少し前に書かれた本です。現在では多少違ってきたでしょうか。でも、どのおきても思わず「分かるなあ」と、ニンマリしてしまいそうです。
私はキリスト者なので、「おきて4」は少々気にかかります。おきて4、宗教はいいとこだけをつまみ食いせよ。
ここで「いいとこ」の中身を考えます。きっと、信じればいい事がある、人生がうまくいくようになる、幸せになる、将来が開ける・・そんなイメージが浮かびます。
いいことを約束してくれる宗教なら、あっちの教え、こっちの教えをつまみ食いする・・。これは、聖書の宗教観、神観とはずいぶん異なります。
少し失礼な言い方になりますが、もし、こういう姿勢ですと、人間にとり耳障りのいい教えだけを探し、どこまでいっても人間のご都合中心の宗教態度が生まれないでしょうか。これでは神様よりも人間が上に立つという事になりかねません。
旧約聖書の出エジプト記3章には、神様がご自分を紹介された言葉が出てきます。
神はモーセに仰せられた。「わたしは、私はある、という者である。」出エジプト記3章14節
「わたしはある」という者、これが神様の自己紹介です。まことに胸のすくような宣言です。言葉の語源には、神である私は存在していた、現に存在している、これからも存在し続けるであろう、の意味が含まれています。
真の神様は自立自存の方で、そのご存在について、人間の証明を必要としません。100人が100人、神などはいないと主張しようと、現におられる方です。
また注意したい点は、人間の希望通りの神でもありません。神のご意志は、時には人間には隠されております。ここからは「つまみ食い」の発想は決して出てきません。
私はキリスト者となって初めて、人が揺るがない幸せを得たいなら、こうした宗教姿勢を改めなければならないと知りました。真の神様は、全き聖にして愛なる方、また人間の創造主であるゆえに、人間の幸せを誰よりも願う方、人生の試練も神様の隠された愛の意図の中で起こされる方なのです。