日々の暮らしの中では、ついつい弁解や言い訳をしてしまう場面に出くわします。皆さんはいかがですか? 弁解という事に関連して、ある詩人は、次のような詩を書きました。
題名は「波紋」です。
「Tさんなあ あなたの気持ち よくわかるけれど
今はなんにも言わぬほうがいいな いえば弁解になるから
静かな池の水面にさ 小石をポチャンと落とすだろ
水面いっぱいに波紋ができるよね
その波紋を静めようと手で押さえる
すると押さえた手のところへ
また新しい波紋ができてしまう
だからね、波紋を静めるにはね そのままにしておくことが 一番いいんだよ。
あなたが弁解すれば 弁解したところに また新しい波紋ができる
苦しいだろうがね いまはなんにも言わぬほうがいい
その代わり、やることだけはやっておくんだよ
あんなに降った雪でも 時期がくればいつか自然に解けて
土の中から水仙の芽がちゃんと出てくるものね
弁解や言い訳よりも いま ここで やるべきことを
具体的にやってゆくことだね 雪におおわれた土の中の球根のように」
ちゃんと弁解をしておきたい。でないと心が納まらない。こういう事はよくあります。でもこの詩は、弁解の愚かさを教え、反対に、すべき事に精を出すよう勧めています。そう言われれば、確かにそうだなあ、という気持ちになりますね。
ここで思い出す聖書の登場人物がいます。それは、創世記に出てくるヨセフです。彼は度重なる不幸に見舞われながらも、人と神様の前に弁解がましい事はいわず、置かれた状況の中で精一杯に生きた人物です。兄弟からねたまれて、エジプトに売り飛ばされた時も、またエジプトでお仕えした主人の奥さんの逆恨みにより牢屋に入れられた時も、あるいは牢獄から先に出た仲間が彼との約束を忘れ去ってしまったときも、「なぜ私がこんな目に会わなければいけないのか?」とは言わなかったのです。当然文句を言い放っていい時なのに、抗議しない姿勢、すごい事です。彼は、ついにエジプトの総理大臣になりました。
ヨセフは全知全能の神様を信頼していました。神は、全てをご存知であると信じて、神様の解決を待ったのです。ですから長い年月の後、自分をエジプトに売り渡した兄達に会ったときも、次のようにいう事ができました。
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。」 創世記50章20節
ヨセフに起こった悪い事を、神様は最善に変えられました。この事は、あなたの人生にも起こりうることです。
もしも、同じような状況に遭遇しているとしたら、弁解をきっぱりやめて、今なすべき事に専念することに致しましょう。
先には神の祝福が、きっと待っていますから・・・。