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2016年2月「神に背負われて」

「お体の調子はいかがですか?」「調子はあまりよくありません・・」「どこか痛い? 調子が悪い?」「体が始終痛かゆいです。が、クリスチャンなので心は明るいです。」施設の作業療法士と教会員のAさんとの間で交わされたマジックによる筆談です。Aさんは、90歳にもなる高齢の女性です。重い障害の身に加え、高齢も重なってAさんの返事は、長い、長い時間をかけて返ってきます。

 

彼女は、その人生で一度も思い切り走ったことも、両手を思いのままに動かしたことも、自由に話したこともありません。しかし豊かな知性が与えられ、その生涯は読書三昧でした。施設が遠いので、年に数えるほどしか訪問出来ません。ある時は、ずっと眠気があって筆談らしい筆談もなく訪問が終わる事もありました。ぼろぼろになった聖書が車椅子に座った彼女の前の机に置かれているものの、意志疎通がままならないので、「Aさんの信仰大丈夫かな?」と思うことも何度かあった私です。しかし、先に紹介した筆談の様子が報告として送られてきた時は、正直ほっと安堵しました。障害に加えて、加齢によって、ますますのしかかる重圧の中でも、神様はAさんの中で生き、動き、彼女を支えていたのだとはっきりと分かりました。

 

「あなたたちは生まれでた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、

 

 わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。

 

 わたしはあなたたちを造った。わたしが、担い、背負い、救い出す。」 

 

                           イザヤ46:3b~4

 

 まず、人の誕生。人は「生まれ出た時から」「胎を出た時から」神様によって背負われ、担われてきたと言っています。この事から、例えどんなに人の目に悲惨と映ろうとも、そこに喜べない状況があっても、神様のあずかり知らない命は一つもなく、神様はその誕生の一つ一つを喜ばれた事が分かります。そうすると意味のない軽い生命は一つもないという事になります。

 

 こうして始まったあなたや私の人生。若い時はそれだけで充実感があり、やりがいのある仕事に自分も喜び、人にも感謝されて日を過ごします。自分が評価され、何かを背負って生きているという自負、自信がもちやすい世代です。しかしだんだんと年輪を重ねて高齢の身になりますと、疲れやすくなり、若者のテンポにはついていけず、今まで出来ていた事が出来なくなるという悲哀を味わっていきます。そこで、自分が社会や人生を背負って生きてきたという自負が次々と剥ぎ取られ、実は自分は生まれ出た時から、造り主によって背負われ続けて来たのだと気づいていく・・。

 

しかし、そのように気づける人は、真に幸いな人でしょう。自分の意志によらず、神様によってあらしめられた人生のスタート、神様によって持ち運ばれたその生涯、ならば神様によって永遠の御国へと招きいれられるのだと・・。先の聖書は「神である私はあなたを造った責任者だから、最後まで私が責任を持つ」そのように言って下さっているのです。あなたの心に平安あれ!