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2016年4月「弱さを引き受ける勇気」

 ある運動能力に優れている野球少年がいました。小学校の高学年から、頭角を現すようになりました。そして中学、高校へと進むにつれ、ますます技に磨きもかかり、プロ野球からのスカウトもささやかれる日々を送っていました。ところが、人生の不運は容赦なくやってきました。ある日、彼は交通事故に巻き込まれて大けがをして、野球どころではなくなったのです。何ということでしょう。その絶望はあまりあるものがありました。そのうち、だんだんと家にこもるようになり、両親にも反抗的な態度をとるようになりました。

 

 さて、そこでご一緒に考えてほしいのですが、このような苦しみの中にいる彼に最も必要とされるものは何なのでしょうか? それは、大変難しい事ではありますが、起こった現実を認め、受け止めていく勇気です。多くの人は「勇気」という言葉を聞くと、何かと勇ましく果敢に物事に立ち向かっていく姿を思い浮かべます。しかし「勇気」には、大切なもう一つの側面があります。それは、人生に起こって来る受け入れがたいこと、認めたくない現実を受け入れていく勇気であり、あるいはまた出来ないことは諦めるという事も、もう一つの勇気の側面でしょう。病気になる、失敗する、関係が壊れる、老いの悲哀を味わう、あれこれあります。これらのマイナスを受け入れて、あるがままの今を感謝して生きることが出来る人は、素晴らしく勇気のある人と言えます。

 

 ここで、私達を力づける聖書の言葉をききましょう。

 

「あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」 ヨハネによる福音書16章33節

 

 聖書は人生のバラ色を約束しません。生きることは戦いであり、大小の苦難は避けられません。しかし、勇気を出しなさいと勧められています。なぜでしょうか?

 

 なぜなら、主イエスご自身が苦難の生涯を歩まれ、そして最後には勝利されたからです。思えば、主イエスの生涯は、貧しい馬小屋に誕生し、最後はすべての人の罪をその身に背負い十字架刑で終わるという実に苛酷なものでした。これほど苦難に満ちた人がいたでしょうか? しかし、この後、前代未聞の出来事が起こったと聖書は宣言しています。彼は三日の後によみがえり、多くの人にその姿を現された、と。復活!! 死は死で終わらなかった、人の罪が赦される道が開けた、と。主イエスの復活により、目には見えませんが、主イエスは今も生きている、これが聖書の中心的な主張です。

 

 あなたは今、沈み込んでいませんか? 今日を生きる勇気を必要としていませんか?

 

 その勇気とは、勇敢に前に進む勇気ではなく、弱さに甘んじる勇気であり、現状を笑顔で受け止める勇気です。苦難を味わい尽くした神の子、主イエスが「わたしはすでに世に勝っている。私が共にいる。あなたは勇気を出しなさい」と、あなたに語り掛けられている声が聞こえるでしょうか?