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2016年6月「光のありかに来たれ」

随分以前、研修で出かけた遠い外国の地より、観葉植物の葉を一枚、ハンドバッグにしのばせて持ち帰りました。「根付きますように」の祈りに答えて、ぐんぐん成長しました。とても堅くて深緑の葉が添え木にそって、登っています。大きくなりすぎた時、植木鉢を窓際から、部屋の真ん中あたりに移動させました。かわいそうに、日光の光が直接当たりません。

 

 しばらくして驚いた事は、添え木にそって登っている全ての葉の表が、遠い小窓の陽の光を求めて、同じ方向を向いていた事です。どの葉も見事に小窓に向かっています。必至になって「光を下さい、命の光を下さい」と求めているような植物の姿に感動しました。皆さんもご経験ある光景でしょうか。植物は、ちゃんと自分の成長にとって何が大切であるか知っています。それは電灯の光ではなく、本当の光である太陽の光です。

 

 ところで、私たち人間はどうでしょうか? 私たちに命を与え、私達の存在を根底で支えているものに気がついているのでしょうか? こんな聖書の言葉があります。

 

「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは、持ち主の飼葉桶を知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない』 イザヤ書1章2節~3節

 

これは預言者イザヤの嘆きの言葉です。創り主なる神様がおられて、私たちを顧みていてくださるのに、それを悟らず罪の中に落ち込んでいくイスラエルの民を悲しんでいます。牛もろばも、あまり敏感な動物ではありません。どちらかといえば鈍感です。イザヤはそうした動物を引き合いにだして、この鈍い動物達ですら、飼い主を知っているのに、人は本当の飼い主である神様を知らないと悲しんでいるのです。

 

 イザヤの時代に限らず、現代でも私たちの周りには、本当の神様を知らないゆえの問題が、山積みになっているような気がします。人と人とが争い、戦争になり、政治を司る人も、あるべきモラルを越えて自分の私利私欲に奔走する人がいます。経済もまた、飽くことのない利益の追求の結果、きしみが生じています。家庭崩壊が後をたちません。子供達が犠牲になっています。寂しい老人が多いです。

 

 しかし「天よ。聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。」このお方の声に、人々が謙遜に耳を傾けるならば、解決の光が差し込んでくる事でしょう。植物が太陽の光なしには、青白くなり、やがて枯れていくように、人も神様の愛と光なしには、生きていけないのです。しかし、幸いなことに太陽はいつも頭上に照っています。神様の愛もそうです。私たちが気づきさえすれば、神様の愛はすぐここにあるのです。植物が陽の光を熱心に求めるように、私たちも命の基である神様を熱心に求めたいものです。