バックナンバー

2016年12月「神は我々と共におられる」

 教会で12月といえば、そうです、クリスマスを祝う時期です。今日は、救い主イエス様の誕生に関わる箇所、マタイ1章21節から23節をご一緒に味わいましょう。

 

救い主の母マリアは夫ヨセフと婚約していましたが、まだ一緒になる前に、神様の清い霊によって身ごもりました。当惑した夫ヨセフに、天使が夢に現れて、心配はしなくてよいと告げると共に、こう言いました。

 

1章21節から「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

 

 天使は、生まれ出る子は自分の民を罪から救う人になるといいました。罪から救う、とう事ですが、では罪とは何でしょう? 罪があるとどうなるでしょう?

 

 皆さんは自分が今不幸なのは、置かれた状況が悪かったからだ、いやあの人のせいでこうなった、夫が、あるいは妻が、また子供がもっとこうであったら、だいぶ違っていただろう、と思っているかもしれません。確かにそういう面も否定できないでしょう。しかし、聖書は私達の不幸の最も根本的な問題は、罪の問題であり、それがさまざまなトラブルを巻き起こしているからだと教えています。

 

罪は怒り、憎しみ、ねたみなどいろいろな姿をして現れますが、その中心に「自分を正しいとしてやまない心」が潜んでいます。この心は実にやっかいです。この、人の心の中にある自己中心の暗闇は、手で振り払っても振り払っても追い出せません。外からの光が必要で、そして光だけが闇を追い出します。

 

 その救いの光としておいでくださったお方が、イエス様です。マタイは、この方のことを「その名はインマヌエル」として紹介しました。インマヌエル、それは「神様が私達と一緒にいて下さる」という意味です。そうなのです。すでにイエス様は、どなたの近くにもおられます。

 

「信仰を持つ」とは、そのイエス様の存在に気が付いていることです。また、人の信仰の力や熱心さで、神様が遠くにいったり、近くに来られたりすることもありません。旧約聖書、創世記に出てくるヤコブは、荒野での眠りから覚めたとき「まことに、主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」と言いました。

 

ですから、さきほどの聖書は「神は我々と共におられる」といい「我々は神と共にいる」とは言わなかったのです。我々が主語になりますと、途端に不安に襲われます。

 

我々は、不信仰、疑い、罪の中にすぐに陥る弱い者で、そんな者がいつも神のもとにおれるわけがないと思うからです。しかし、神様が主語ですと、事情は一変します。人間の側がどうであろうとも、神様は永遠に変わらない愛の御手を差し伸べて「共に歩もう」と招かれているのが分かるからです。あなたの上にも、招きの御手が伸べられています。