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2019年2月「幸いな人」


 私たちは誰でも幸せになりたいと願います。皆さんは、幸せな人、と聞いてどんなイメージを思い浮かべるでしょうか? 明るくて暖かい家庭のある人、いつも健康に恵まれている人、自分のやりたい事をどんどん推し進めている人、社会的な地位を築いていっている人など、いろいろですね。しかし聖書が言っている幸いな人の姿、それは少しおもむきが異なっているようです。

 

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」 

             マタイによる福音書5章3節 

 

ああ何という幸いなことか、心の貧しい人たちは、というのです。ここで心が貧しいとは、心が貧相で、豊かさに欠けているという意味ではありません。丁度その反対で、その心がごう慢でなく、へりくだっている心、神様からの真理を受け入れやすい状態になっている人の心です。私たちは、いつそういう心の状態になれるのでしょうか? 

 

それは、物事が順調なときよりも、うまくいっていない時、試練の多いときかもしれません。私たちが避けて通りたいような状況の中で、その人は別の意味で幸いになれるのだ、と聖書は教えています。確かに人は、試練や苦しみをくぐり抜けて、なかなか学び得ない謙遜ややさしさを身につけ、そして何よりも神の存在に気付いていくのです。

 

 第二に、その幸いは神様との関係の中で与えられる、という事です。神様の御前で心が貧しいのです。ですからその人は、自分が神様のみ恵みなしには片時も生きられない者だと悟っています。多くの人は自分の力で生きているように思っています。その結果、自分の努力で、頑張って幸せは勝ち取らなければいけないと考えます。

 

 また、もし健康であれば、もし立派な仕事につければ、もし家庭的に恵まれていれば幸せと思いますので、そのために努力致します。そして、その努力は報われない事もおうおうにあります。しかし、聖書は、幸いというものは「目的」として追求するといった性質のものではなく、むしろ神様との関係を正しくしていった「結果」として与えられるものだと教えます。

 

 ですから神様の御心を知り、それに沿って歩もうと、ただその一点に思いを寄せるとき、人は結果的に神様が下さる贈り物、幸せに気づく事ができます。それは人の目でみての幸・不幸という状況を超えて与えられる幸せなのです。

 

 第三に、その幸いは天の国がその人のものになる幸いです。人間は物質によっても支えられていますが、心や精神をもち、またもっと奥深くには魂と世界、霊の世界をもつ生き物です。人が真に幸いになるためには、霊の部分も満たされる必要があります。人は、物事が順調な時よりも、思うように運ばない時に、霊や魂の分野が目覚め、気付かされていく事はよくあります。

 

 へりくだった貧しい人にしか見ることの許されない霊の世界、永遠の世界が見えるようになります。そして私たちの存在の最も奥深いところに、神の命が宿ることにより、この世が提供する何ものにも変えがたい幸せが、その人にもたらされる事でしょう。

 

ですから、心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである、という聖書の言葉は、まことに本当なのです。