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2019年6月「真の平和への道」


 聖書には一度読んだだけでは意味がよく分からない箇所があります。今からご紹介する言葉もそういうところです。

 

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。」

              マタイによる福音書10章34節~35節

 

 確かに分かりにくい言葉ですね。イエス様が来られて人間関係が悪くなる?

 

亀裂や分裂まで生んでしまう、大変なことになってしまう、これではとまどってしまいます。一体全体、平和ではなく剣をもたらすために来た、とはどういう意味なのでしょうか?

 

 ところで、多くの人が人間関係で悩んでいます。表面上は問題がないように見せているけども、本当のところは忍耐や我慢の上に成り立ったにすぎない平和、世間体を考えてひとまず取り繕っている平和、という事もありますね。こういう状況は苦しいですから、何とかしたいわけですが、なかなか解決の糸口が見つからないので、あきらめの気持ちで過ごしている人も少なくないことでしょう。

 

そこで、イエス様がなさる事は、そのような偽りの人間関係を、剣をもって一度壊しにかかられる、という事だと考えられます。お医者さんは病気を治すためには、病気の原因となっているものを探しだし、そこにメスを入れます。患者さんは確かに辛く痛い思いをしますが、その結果、病の根源が取り除かれて、少しずつ健康な体に戻っていきます。

 

同じように、人間関係においても、うまくいかない本当の原因に光が当たる、その必要がありそうです。聖書では、その本当の原因を罪と呼んでいます。人間は総じて罪の病にかかっていると言っております。罪ある人間の一番の特徴は、相手の悪いところはよく見えるけれども、自分の悪い所には鈍感になるというものです。人はこの罪を認め、処置を受けない限りは、いつまでたっても平和はやってこないのだ、と聖書は主張するのです。

 

主イエス様は御言葉の剣をもって、私達の心に切り込まれます。とても大胆です。次の聖書の言葉をご覧ください。

 

「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨隋とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」  ヘブライ人への手紙4章12節

 

聖書の言葉に責められる、光の取り扱いを受ける、これは確かに痛みを伴います。そのためしばらくの間は、平安をなくし、事態がよりいっそう悪くなったように見えるかもしれません。しかし、これが神様のなさり方です。人は、神様によって、自分が固執してきた小さな正義感をつき崩され、思ってもみなかった自分自身が探られるという、新しい方向からの痛みや混乱を通過しながら、本当の平和を回復し、人としての成長を許されていくのです。

 

今、神様の剣が臨んでおられましたら、それは神様が真実あなたのことを思っての「愛の剣」であることを思い起こして下さいますように・・。お祈りしています。